トリップ管理人の部屋Vol.1
2017-08-28T23:45:25+09:00
domonjin
世の中に忘れ去られていく風景を追い求めていきます
Excite Blog
本日の直虎で微妙な堀江城の大沢基胤、堀川城でかく戦えり。
http://aitrip.exblog.jp/28101262/
2017-08-27T21:20:00+09:00
2017-08-28T23:45:25+09:00
2017-08-27T21:20:29+09:00
domonjin
トリップ人物伝
大沢基胤(もとたね)は永禄8年(1,565)9月、飯尾豊前守(ぶぜんのかみ)が守る曳馬城攻めのために、城飼郡(小笠郡)の新野(にいの)城主新野左馬助や井伊家の老臣中野信濃守(しなのかみ)らと共に出陣した。この時の堀江勢の奮戦は目ざましかったが、結果は和睦となった。戦後、今川氏真はその臣小鹿右馬助を堀江城に使わして、その功を深くたたえ特に感状を与えたのである。その頃の今川氏の所領は、駿河17万石、三河24万石、尾張12万石の計80万の大勢力であった。このような勢力を持っていた今川氏も、氏真が暗愚(あんぐ)無能に加えて、遊興の日々を過ごしたため、その支配力は急速に落ち始めた。
薩た峠の合戦に敗れ、駿府に火をかけられた氏真は、遠江における今川勢の拠点(きょてん)掛川城主朝比奈泰朝(やすとも)のもとに身を寄せた。
一方、武田信玄(しんげん)から、駿河、遠江の分割を持ちかけられた岡崎城の徳川家康は、好機到れりとばかり、直ちにその実行に着手した。すなわち、浜名湖の北と南の二手にわけて東進し、その手始めに井伊谷城を血祭りにあげ、続いて刑部(おさかべ)、白須賀、宇津山の諸城をおとしいれ、威風堂々と曳馬城に入った。
家康が曳馬城に入るまでの、すなわち井伊谷、刑部の両城を攻略するまでの経緯を書き添えておこう。それは後で、堀江城攻めに出てくる井伊谷3人衆が、家康の家臣になった事情が理解されるからである。
2.井伊家の人たち遠江国都田村の土豪(どごう)、菅沼治郎右エ門忠久は、同族の三河国野田村の菅沼定盈(さだみつ)から来た書状を見た。それは、「このたび岡崎の家康公が、遠州へ向けて進発するが、土地不案内のためその先導を願いたい」というもので、思案に余った忠久は、日ごろ親しく交際している瀬戸の鈴木三郎大夫重路(だいふしげみち)、井伊谷の近藤石見守康用(いわみのかみやすもち)の考えを聞いた。忠久、重路、康用ら3人は、鎌倉時代からの北遠の名族で、井伊氏の旧家臣であった。井伊家の当主直親が駿府へ行く途中、今川氏から反逆の疑いがあるとして、掛川城主朝比奈泰能(やすよし)に殺されたばかりか、その領地も没収されて一家は離散し、その子万千代はのがれて流浪するという悲惨なありさまとなった。その結果「我々が恥をしのんで今川氏に従ってきたのは、主家井伊氏の再興の機会を待っていたためである。それにはまたとない好機会である」と相談が一結して家康に参ずることにした。なお万千代は、のちに登用されて彦根城主井伊直政となる。
定盈の手引きで3人が三遠国境で家康に初対面したのが永禄11年(1,568)の12月であった。家康は、屈強な遠州侍を味方にしたことで大変な喜びようで、その場で3人に気賀の郷、蒲の郷、万斛(まんごく)、橋爪、萱場(かやんば)、安間の郷、新橋(にっぱし)、小沢渡(こざわたり)、人見の郷などを与えることを堅く約束した。喜び勇んだ3人を道案内として家康は、今川勢の守る井伊谷城を追い、更に刑部城を攻略し、一挙に曳馬城に入ったのである。
3.掛川城攻め家康は更に、氏真のいる掛川城を攻略しようと、酒井忠次、石川数正、本多広孝、植村家政、小栗忠吉らに兵2,500余人を与えて進撃させた。
掛川城も三浦秀盛(ひでもり)らが家康軍を攻め、両軍はここを先途に激しく戦い、今川勢の討死した者は、伊藤次郎、同右近、同掃部助(かんべのすけ)、笠原七郎兵衛、菅沼帯刀(たてわき)、朝比奈小三郎ら名のある者38名、ほか雑兵180人ばかりであった。家康方も数人討死したが名のある者ではなかった。それにもかかわらず城は落ちないので、和睦をした。
4.堀川城の悲劇堀川城合戦の模様をややくわしく述べる。堀川城は堀江城の属城で大沢氏の支配下にあり援軍を送っているからである。
掛川城攻めで和睦し、一時岡崎に引き上げようとした家康が、姫街道へ差し掛かったところ、堀川城に立てこもった浪人や農民たちが、家康に反抗の気構えを見せた。
堀川城は気賀の村はずれ油田(あぶらでん)の小高い丘の上に柵(さく)をめぐらし、前面に都田川の水を引き、背面を浜名湖に臨ませた砦(とりで)であった。
城主は新田友作という祝田(ほうだ)で寺子屋を開いていた浪人で、土地の豪族尾藤主膳(びとうしゅぜん)や山村修理(しゅり)、竹田高正などにあやつられて、気賀村一帯の農民をかり集めて築いたのがこの砦(城)で、永禄10年(1,567)に完成したばかりである。
農民たちの不穏(ふおん)の気配を知った家康は非常に驚いた。そこで諸将を集めて善後策を協議したが、諸将はただぼうぜんと顔を見合わせるばかりであったが、やがて渡辺図書(ずしょ)という者の計略で、家康に雑兵(ぞうひょう)の服装を着せ、17騎と共に先発させ、図書は後から200人ばかりの兵を従えて通った。
城兵は後の一団中に家康がいるものと思って攻めかかったが、求める家康がいないとわかって、がっかりした。
こうして岡崎に帰った家康は、3,000の兵を整えて、堀川城攻略に出陣した。
堀川城には、西光院、宝諸寺、桂昌院などの余類があり、基胤の属将には尾藤主膳、山村修理、その他竹田高正、新田四郎などの土豪がおり、刑部には給人、百姓などの内山党があり、また寺社人、地下人と称する者を合わせて1,500人が立てこもった。
平松崎に陣を立てた家康は、永禄12年(1,569)3月12日、満々とたたえられた外堀の水が、干潮(かんちょう)で引き始めた間髪を入れず総攻撃の火ぶたを切った。水が引いた堀川城は裸も同然、それに農民1,500人は、男と言わず女子供までがスキ、クワ、竹ヤリの武器を持っているとは言え、戦うまでもなく城内はたちまち悲惨な地獄絵と化し、女子供まで切り殺され突き殺されて、僅か1日であえなく滅び去ったのである。堀江城から出された20人の援軍もみな討死した。竹田高正は城内で切腹、山村修理は小引佐に逃げて切腹、新田四郎は逃げて僧になったが、後で惨殺された。
尾藤主膳は落城の様子を堀江城に報告するため部下10名と共に小舟でひそかに脱出して堀江城に着き、つぶさに報告したのち城内にかくまわれたが、その年4月、大沢氏が家康と和睦したため、無念の涙をのんで10人と共に切腹した。堀江の大木戸という所に十頂(とうず)(十頭)という古い地名が残っていて、10人の首を埋められた小社が建てられ、十頂八幡宮として祭られていたが、現在はその跡さえ見られない。
悲劇は落城後も続いた。堀川城内の農民兵や女子供は、その半数が戦死したり惨殺されたが、残る700人ばかりはとりことなり、都田川の堤に集められて惨殺された。そこを獄門畷(ごくもんなわて)として碑が建てられている。
その当時、気賀、刑部両村の人口は3,000人であったから、その半数が戦死あるいは惨殺されたのである。そして更にその上、気賀村の全家屋が焼き払われたのである。
5.堀江城の激しい攻防城主大沢基胤は始めから家康が気に入らず、近郷入野村の木寺宮と謀(はか)って兵を集め、堀川城を助けるなど、事毎に反抗の態度を取っていたので、このたびの挙に出たのである。
基胤は、中安兵部や権太織部(ごんだおりべ)などの勇士を養って、近隣にその武名が高く、このほかに村櫛の志津城を守る山崎権太夫、真瀬将監(しょうげん)、山下七郎右エ門らの勇士もいた。
永禄12年(1,569)3月25日、井伊谷三人衆の近藤石見守康用その子登之助秀用(のぼりのすけひでもち)、鈴木三郎大夫重路、菅沼治郎右エ門忠久、新八郎定盈(さだみつ)父子らが堀江城を攻めた。
堀江城は三方湖に面し一方は沼で、潮が満ちれば攻めにくい要害の地であった。加えて強力な勇士が立てこもり、三人衆は全力を尽くして攻めたが容易に屈する気配も見えない。よって家康は鈴木権蔵に附城を築かせてその陣代とし、長期戦の腹を固めたものの、基胤はよく防戦し、時には城外に討って出て井伊谷勢を苦しませた。総大将近藤石見守でさえ堀江城士新村善左エ門とわたり合って、槍(やり)で股(もも)を突き刺されたほどである。またある時は、堀江勢の逆襲を受けてあわてふためき、具足をつける暇もなく素肌で防戦したこともあって、どちらが攻め、どちらが防いでいるのかわからない攻防が続いた。
この時の激戦の模様の一例を挙げてみると城兵300ばかりがほこを揃えて討って出たので、井伊谷勢はわずか100人ばかりで防戦したが、井伊谷勢が城兵の勢いにのまれて、ほこを合わせないのを見て、城兵の中の一武者が群を離れて進み出で、すでに6─7尺ばかりの距離になったとき、近藤石見守が出てきてこれと一騎討ちをしようとした。同じ三人衆の鈴木三郎太夫は、近藤と同年で常に権勢を争っていたが、この有様を見て近藤の後から進み来て「彼はよき敵である。討ちもらすな。」と叫んだ。近藤は無言のままで進み、鈴木も続いて進んだ。井伊谷勢はこれに勢いを得て、ときの声をあげながら後に続いたので、城兵もたじたじと退いて門内に入った。残った武者が1人で戦っているうちに中から城門を閉じてしまったので、武者は入ることができず木戸わきに突っ立って防戦した。近藤と鈴木は互いに自分の功名にしようと木戸ぎわまで追いつめると、この時やぐらの上に2人の兵が銃を構えて現れ、2人をねらって発砲した。このため鈴木は銃弾を受けて戦死したが、近藤をねらった銃は不発に終わって助かり、直ちに武者を討ち取った。
この武者は数日前他国から武者修行に来ていた者で、生国も名前もわかっていない。基胤は、この攻防の始まった10日目の4月4日、掛川城主朝比奈泰朝へ書状を送って、近況や心境を伝えている。それを要約してみると、●久しく御無沙汰(ごぶさた)しているので其の地(掛川)が心配に思うこと。
●当城は今までは堅固であること。
●兵糧は当座2─3ヶ月ばかりは持っていること。
●城下の知行分も欠所になったこと。
●来作(麦)は少しもなくどこからも兵糧の入る当てのないこと。
●敵方から種々の難題をかけられていること。(降伏のことならん)
●今になってこのような次第で無念至極であること。
●堀川城は十分な備えが出来なくて、すぐに攻め落とされたこと。
●給人百姓ことごとく討死し加勢した二十人も討ち死にしたことはくやしいこと。
●末々のことは御下知(げち)を頂きたいこと。しかしこの書状を送った時はすでに掛川城は家康と和睦した後で、果たして届いたかどうか不明である。
基胤は城外に討って出る時や、敵が攻め寄せる前には、士気を鼓舞(こぶ)するために必ず鐘をたたき太鼓を打ち鳴らしたと伝えられ、これが後世に再現された「堀江陣太鼓」の由来である。
6.堀江城が家康と和睦してその家臣となる家康は堀江城の意外な反撃に驚き、これを力で攻め落とすことの困難を知って、使者渡辺成忠を城中につかわし、言葉をやわらげて基胤を説得した。
「大沢氏は由緒(ゆいしょ)の正しい家柄で、もとより今川氏の被官でもなく、家人でもない。それだのに古いよしみを重んじ盛衰(せいすい)をもって志を二つにせず、終始今川氏のために守って屈せず奮戦力闘日夜をわかたず、却って寄手を攻めること数度ならず、その忠勇義烈は最も深く感ずるところである。
しかし今や掛川との和睦もなり、遠州一円は我がものとなった。わが領にある者はわが命を聞く、これ天意人道ではないか。われはすでに氏の武勇を認めた。いま帰順したならば、間違いなく所領は元のままにしておこう」と。
家康からの降伏説得はたびたびあったようである。掛川城への書状にも、敵方から種々難題をかけられている、というのはこの説得のことを指しているものと思われる。
基胤はこれに対して「使者の言葉はよくわかった。その言葉が果たしていつわりで無かったら、家康自筆の誓書を得てから、おもむろに考えよう。それが得られぬ場合は我また答える言葉はない」と返事した。
使者は帰って家康にこれを報告した。家康は「基胤の言葉には理がある。我なんぞ誓書を与えることを惜(お)しまう」と言って次のような起請文(きしょうもん)を自ら血判して基胤に与えた。敬(うやうや)しく白(もう)す起請文の事
1.当城へ居城のこと
1.諸事公事を抜くこと有るまじきこと
1.本知何(いず)れも前々の如く新居のため呉松に替地相違有るまじきこと。
1.当知行分諸不入並びに当城下の諸成敗山河と共に前々の如く為すべき事
1.万事に於いて虚説(きょせつ)などこれ有るに於いては訴人は糺明(きゅうめい)を遂(と)ぐべき事
右の条々偽(いつわ)るに於いては 上は
梵天(ぼんてん)、帝釈(ていしゃく)、四天王総じて日本国中大小神祇(しんぎ)、別して弓矢八幡麻利支天(まりしてん)、富士白山愛宕(あたご)山、秋葉天満大自在、天神様の御罰を蒙(こうむ)り、今生に於いては弓矢冥加(みょうが)を尽くし、黒白病を得、来世にては無間に落つべきものなり。
仍(よ)って起請文件(くだん)の如し
永禄十二年四月十二日 家康 血判
大沢佐エ門佐殿
中安兵部少輔殿
権太織部佐殿なお同文で同月同日、酒井佐エ門尉(じょう)忠次と石川伯耆守(ほうきのかみ)数正の血判による起請文が渡されて、誓いの固いことを示した。
こうして永禄12年4月12日、基胤は家康と和睦の形で、20日間の激闘が終わったのである。
破竹の勢いで諸城を陥(おとしい)れた家康が、かくまで礼を厚くして和睦したことは、一つには大沢氏の家系の貴(とうと)さにもよろうが、二つにはその士卒の勇武と堅固な自然的地形のために攻めあぐねた結果であり、更に推理を働かせれば、天下統一の大業を前に、このような小城にいつまでもかまってはいられぬ、というあせりの気持ちがあったのではなかろうか。
永禄11年家康は信玄と約して、今川義元の遺子氏真の暗愚に乗じて、駿遠を分取しようとした。すなわち信玄は駿河を攻めて氏真を掛川城に敗走させ、家康また掛川城を攻めた。
思えば、足利氏の一門として、また関東の副将軍として勢威の強大を誇った今川氏も、その末路のあわれさ。懸命の地と頼んだ掛川城も今や四面ことごとく楚歌(そか)。わずかに大沢氏が、家康の根拠地西遠の地において義のために抗戦よく奮戦した。
7.あとがき
数代にわたる栄華を夢として、今や正に亡びようとする今川氏に取っては、基胤の善戦こそは無上のはなむけとなったことであろう。
これより10年後、家康の長男信康は信長の怒りを買い、家康の助命運動も空しく、三河の大浜から堀江城に入り、一宿して二俣城に至り自刃して果てた。まことにふしぎな因縁と言うべきであろう。
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松菱百貨店
http://aitrip.exblog.jp/9027791/
2017-08-13T18:38:00+09:00
2017-08-13T18:38:53+09:00
2008-09-09T22:14:15+09:00
domonjin
思い出横町
浜松は戦時中の空襲の影響で昔ながらの建物があまり残っていない。前の市長が以前市内の景観について残さなければならないものは残さなければならないが、古い建物等貴重なものはあまり残っていないというようなことを言っていた。そして浜松には昭和の風景がどんどん無くなっていった。
浜松は古い物は少ないがその分新しい物をどんどん吸収して発展していった。そんな浜松だが空襲でも松菱百貨店だけは残ったというのがいまだに年寄りの間では語り種だ。昔新聞かなにかで焼け野原の中にたたずむ松菱の写真を見たことがある。昭和40年代の高度成長期、浜松市民が「街にいく」と言ったら大抵松菱へ行ったものだ。今でこそ街中や郊外にいろいろ大型店が出店してるが当時は松菱ぐらいしかなかった。そこで若者は最新のファッションを、奥様は高価な品を買い求め、子連れは屋上のミニ遊園地で遊んだ。この屋上には今はどうしても食べたい逸品として「松菱のアイス」がある。普通のアイスほど甘くなく、少しシャーベットぽくもありどこにもない味だった。似た味としては清里の清泉寮のソフトクリームを安い材料を使ってあっさりさせたような味だ。子供の頃は良く通ったのだが、高校生ぐらいになると行かなくなった。今さら松菱なんてというような感覚が若者にはあった。それでも年寄り達は百貨店というとやっぱり松菱であった。その松菱の隣に ヤマタカとかいうおもちゃ屋さんがあり、ここではたまにイベントとして怪獣が来たりしていた。ウルトラセブンのカプセル怪獣ウインダムと握手したとき、べとべとしたのを覚えている。
子供達の遊び場としては児童会館があった。今では場所を移し科学館となっている。児童会館では数十円の入館料で1日遊べた。なんと映画館もあるのだ。映画はたしか無料でゴジラシリーズやサイボーグ009などを見た記憶がある。当時としては未来を想像させるテレビ電話とか、へんなロボットとかもあった。別料金でプラネタリウムを見ることができるが、私達の間では、当時ここでプラネタリウムを見ることができた子供はお金持ちということになっている。ちなみに私は見たことないが、私の奥さんはよく見に行ったと証言している。浜松城近くには市営プールや動物園があり、子供が楽しむものはなんでも街中にあった。
大人になって会社が街中にあったので、よく昼休みとか松菱のアイスを食べに行ったが、あるときそこのおばちゃんに前のアイスはもうないよといわれた。普通のソフトクリームに変わっていたのだ。松菱友の会では会員に無料コーヒーをサービスしていたのにいつの間にかそのサービスもなくなった。私の母はそれを楽しみしていたのだが。松菱は建物を大きく立派にしたが、私達家族には魅力の無いものとなってしまった。
そして松菱はあんなことになってしまった。
市営プールや動物園は取り壊され、一部の浜松市民しか利用しないような公園になっている。ZAZAシティが出来て街も活性化してきてるだろうけど、子供の頃に味わった幸せはもうない。
先日豊川の「ぎょぎょランド」ヘ家族で行ってきた。入場無料で小さな水族館もあり、犬やうさぎなどのどうということのない動物や絵本を見るコーナーなどがあってけっこう楽しんできた。その帰り、豊橋のリサイクルショップに松菱のゴミ箱やライトスタンドが売られていたが、シール(松菱のマーク)はご自分で剥がして下さいと書いてあった。豊橋市民が買ったら松菱の痕跡がなくなってしまうと思うと忍びなく思い、ゴミ箱を買ってきた。このゴミ箱は松菱を愛したお客さん達が利用したのだ。なかなかしっかり作られており、現在仕事場で重宝している。
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トリップ移転のお知らせ
http://aitrip.exblog.jp/15702230/
2011-03-23T18:30:00+09:00
2012-04-17T09:01:43+09:00
2011-03-23T18:30:43+09:00
domonjin
トリップが移転しました
ご迷惑をお掛けしますが引き続きご愛読下さい。
トリップ管理人の部屋Version2
トリップ管理人の部屋
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栄枯盛衰の山、鳳来寺山を登る。(愛知県新城市)
http://aitrip.exblog.jp/15391290/
2011-01-25T09:55:00+09:00
2012-04-17T09:02:42+09:00
2011-01-25T09:55:27+09:00
domonjin
神様仏様のいる山を行く
続きは下記まで
http://aitrip.blog87.fc2.com/blog-entry-2.html]]>
神様がいる山、石巻山を登る
http://aitrip.exblog.jp/15253190/
2010-12-31T17:32:00+09:00
2016-04-27T19:18:26+09:00
2010-12-31T17:32:25+09:00
domonjin
山中探偵団
だいだらぼっちの足跡。
頂上付近は登るのが厳しい。
磐座があった。
だいだらぼっちのおしっこと子供が言っていた。
先程子供や年寄りには厳しいと言ったが実は山頂に子供と年寄りがいた。
山の所々に神様が居る。]]>
磐田市にある国指定文化財「遠江国分寺跡 」・府八幡宮周辺散策
http://aitrip.exblog.jp/15103382/
2010-12-05T09:50:00+09:00
2011-01-06T16:35:02+09:00
2010-12-05T09:50:20+09:00
domonjin
わが町文化財
遠江国分寺跡は、天平13年(741年)聖武天皇により建立された国指定文化財(特別史跡)。国分寺とは不安な世の中を何とかしようとした聖武天皇が選りすぐった国に建てた物で、建てられた国は、大変な名誉である。昭和26年に発掘調査がされ、七重塔の伽藍などのお宝が発見された。現在も発掘は続いている。まだまだお宝が眠っているようだ。上の写真はものすごくお金を掛けて再現したCGだ。
当時使われていた石。
隣にはオートバイ屋がある。
その隣には何かの教会がある。
その向かいには府八幡宮がある。塀は明治時代に壊された神宮寺の築地塀。坂本龍馬が居なければ神宮寺も残っていたかも。平安時代に作られた僧形八幡像と女神像。どっちがどっちかは不明。
最近では最もいいおみくじだ。
お守りを売っている人に「こんにちは」と声を掛けられるが、お守りを買わないのでそそくさと他の道を行く。なんてこった自分。]]>
森町にある重要文化財の友田家周辺
http://aitrip.exblog.jp/15055738/
2010-11-27T09:19:00+09:00
2010-11-28T09:23:15+09:00
2010-11-27T09:18:58+09:00
domonjin
わが町文化財
森の石松で有名な遠州の森町の奥の方に行くと昔ながらの山村風景が残っている。森町出身の宴会で酔って大暴れをして石松の実家を壊した消防団の友人に「森町には重要文化財がある」と言う自慢を毎回聞き、見に行かなくてはならない状況になってその重要文化財の「友田家」を見に行く。
友田家のある集落は八っ墓村のような佇まいを見せる。
江戸時代に庄屋だったこの家を見るには200円の観覧料がかかる。重要文化財になったのでお金を取るようになったのだ。宿泊施設として使用しているので家の中でお客さんがここの家のばぁさんとおしゃべりしながら食事をしていた。昔ながらの田舎料理を食べることが出来る。
友田家に行ってきたと森町の友人に報告すると、「森町にはダムがある。見てきたか?」というので、見てないというと「みにゃダメジャン。」と言われ、今度見に行くと約束させられた。森町巡りはまだまだ続く。
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森の石松ゆかりの地、森町散策
http://aitrip.exblog.jp/14974559/
2010-11-21T17:17:04+09:00
2010-11-21T17:17:06+09:00
2010-11-13T21:16:52+09:00
domonjin
日々生きて行く私
森町は森の石松でも有名な男気のある町である。かの平成大合併のときにも、どこからも侵略されなかった。祭りとなれば隣町の連中を誰彼かまわず殴るらしい。私は奥さんの親戚からの借金で、奥さんより更なる追求を受け、いたたまれなくなり、森町へやってきた。森町は、前に来たとき小國神社のおみくじで「親戚に迷惑を掛けるでしょう」と言われた地でもある。その神社に行く途中、小さい祠が続いていたので先を進むと龍源院という寺があった。そこには「金の鳴る石」なるものがあり、小さな石でその石を打つのだが、1つ打てば勇気が沸き、2つ打てば己に目醒め、3つ打てば智恵が授かるという物だった。今の私にこそ必要なものだ。しっかり3つ打ってきた。
道を元に戻り、小國神社に行く途中。警察が居たのでなんだか迂回したら天神社に着いた。そこには「亀石」があって、なでると力が沸くという。しっかりなでてきた。なるほど、今の私に必要なのはこういう物かと、納得する。
目的の小國神社は七五三の参拝客で混んでいた。七五三で参拝に来ていた家族がもめていた。奥さん「カメラは?」。旦那さん「気がつかなかったので…」。奥さん「いいからカメラを出して!」。旦那さん「………」。七五三で子供がおめかししているのに旦那さんがカメラを忘れたらしい。旦那さんはカメラを忘れたと言っているのに奥さんはカメラを出せと言う。奥さんというものは、出来ないことを要求するのだ。さておみくじを引いた。
このままでは帰れないので森の石松ゆかりの大洞院へ行く。
石松の墓に勝ち運のお願いをする。この墓は何度か作り直している。墓の石が勝ち運の御利益があるということで、みんな削って持って行ってしまうらしいし、実はこの石の破片をこの神社で売っているのだ。おみくじでは「世の中には自分の為になる人間と、害を与える人間が居る。心して自分の目を開け」といわれた。奥が深い。
なんだかもっと神社巡りがしたくなり、天宮神社に行く。ここには天然記念物のご神木と文化財の神宮寺、そして、巨人だいだらぼっちの足跡といわれている「くちなし池」がある。この池は1本のくもの糸が地獄に続いているらしい。
神明宮
くちなし池
最近、神社などがパワースポットとして見直されてきたらしい。木が多いので、なんとかいう物質が身体にいいらしい。なにをいっているのやら。神社は神様が居る気配を醸し出しているし、その気にさせるアイテムがあるから精神にいいのだ。
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金谷大井川娯楽センター 満劇団
http://aitrip.exblog.jp/14397176/
2010-11-12T19:41:00+09:00
2012-08-03T23:28:07+09:00
2010-08-14T22:46:28+09:00
domonjin
大衆演劇を楽しむ
大日方 皐扇(おおひがたこうせん)座長とその子供達(5才と3才)が活躍する満劇団。美人座長で有名ということなので、座長見たさに大井川娯楽センターへ行く。本日の演目は女版「子連れ狼」だ。子連れ狼は大好きなのでドラマも漫画も全て見た。今回の演目では拝一刀と柳生の名前はなんか変更されていた。もちろん美人座長が拝一刀(名前は変えてあったが忘れてしまった。以後拝という)役である。そして3才の子供が大五郎役だ。音楽はもちろんバーブ佐竹のててご橋である。橋幸夫のしとしとぴっちゃんでないところに本気を感じる。なので話が重く暗い。観客は年寄りばっかりなのでついて行けてないようで、拍手のタイミングもつかめないようだ。私は好きなので十分楽しんだが。柳生の刺客に5才の子供がでて、拝の母を切り、拝に切られたりもする。母が死ぬ間際に、拝に人の幸せの真理を語るのだが、その横では5才の刺客が死んでいる。座長の芝居が本気なので笑うタイミングを逃す。ある意味緊張感のある芝居だ。ラストの大立ち回りが凄い。拝が、延々と舞台を走り回り、刺客を切りまくる。5才の子供も何回も出てきて切られまくる。大五郎もそれなりに演技している。美人座長はまだ20代らしいので、あと10年ぐらいすると、座長は妖艶になり、子供達はイケメンになり、この劇団はもっと面白くなると思う。
歌謡ショーでは子供が私の側に来て踊っていたのだが、どうやらおひねりを貰いに来たらしい。渡そうかどうか迷っているうちに、去っていってしまった。なんか悪いことをした。大衆演劇をイキに楽しむ粋にはまだまだ経験が必要だ。
明日の演目は森の石松の閻魔堂の場面と言うことで、血のりを2ルットル使うと言っていた。
帰り際5才の子供がおばあさん達に千円札のおひねりを一杯貰っていた。
凛々しい顔の座長さん烈堂との死闘
死闘は終わった
冥府魔道はつづく
座長さん(色っぽい顔をする)おひねりをもらいに来たのに(なんであげなかったのだろう)
座長さん(かわいい顔もする)終わりです
懐には大金が
座長さん(座長の顔をする)]]>
浜松市 鴨江周辺 旧赤線地帯散策
http://aitrip.exblog.jp/14851007/
2010-10-24T19:37:00+09:00
2012-08-03T23:27:40+09:00
2010-10-24T19:37:26+09:00
domonjin
わが町探訪
空き家かと思ったが人が住んでいた。鴨江観音
浜松駅から鴨江観音に続く地域には赤線と呼ばれるあやしい商売をする所があった。私の知人も、若いときにそこでお世話になったと白状している。もちろん現在はその名残さえ残っていないが、なつかしい昭和の佇まいはわずかに残っている。私が子供の頃は「おかもえ」といって、お彼岸には必ず、浜松駅から鴨江観音まで歩いていったものだ。道路には寅さんのような露天商が威勢良く怪しげな物を売っていて活気があった。現在は佐鳴湖に続く大きな道路が出来ている。いつも思うのだが道路が出来ると町がダメになる。鴨江観音では今では決して見ることの出来ない「見せ物小屋」があった。足と手のない人や蛇を食べる人を「親の因果が子に報い」とかいって見せ物にしていた。今思うと身体障害者を見せ物としていたのだ。当時、松菱デパートに続く地下道には「傷痍軍人」が白い軍服を着てアコーデオンを弾いていた。母からいくばくかのお金を渡されて傷痍軍人にあげた。見せ物小屋の人と傷痍軍人を一緒にはできないが、彼らは彼らなりに生きていたのだ。今は浜松では道路脇に露天商が店を出すことが出来なくなった。赤線もなくなった。それでもステッキガールが出没するという噂を聞いたことがある。いわゆる「たちんぼう」である。恐ろしいことに赤線時代の女性が相手をしてくれるらしい。(未確認)
下記に続く
http://neotrip.exblog.jp/18184688
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登録有形文化財 旧浜松銀行集会所 現木下恵介記念館
http://aitrip.exblog.jp/14845467/
2010-10-23T21:02:53+09:00
2010-10-23T21:02:58+09:00
2010-10-23T21:02:58+09:00
domonjin
わが町文化財
1930年、銀行家の交流の場として建設された「浜松銀行集会所」。設計は豊橋の公会堂も手掛けた中村よしへい。現在は木下恵介記念館となっている。木下恵介は浜松市出身でその弟は水戸黄門の主題歌の作曲者だ。客は私一人だったので、責任者のような方が、「クイズしませんか?」と話しかけてきた。「映画に詳しくないと難しいかも知れませんけど」とおっしゃったが、実は私は木下恵介お気に入りの女優、高峰秀子が好きで木下映画もたくさん見ている。ほとんどが答えられる自信があった。はたして1問、2問と正解が続く。大した物ですねえと言われいい気になって答えていたが、最後の問題で、「あっ残念、間違えましたね。」といわれる。問題は写真に写っている木下恵介の助手は誰か?という物だが、木下恵介のお気に入りの助手といったら松山善三(高峰秀子の旦那さん)なのだから、当然写真の男もそうだと決めつけていた。「皆さんここで間違うんですよ。この写真の人は山田太一ですよ。引っかけのつもりじゃ無いんですけどね。」とのことだが、思うつぼの答えをしたようだ。山田太一の岸部のアルバム見ましたか?、と言うので、八千草薫が色っぽくていいですね。と答えると、そうですね、当時40才そこそこ越していて一番いい時期でしたねと同調して貰った。その後高峰秀子や木下映画を生半可な知識で私が話すと、資料室へ案内されて、1つ1つの映画を丁寧に説明してくれた。来月、当時のイケメンばかり集めた映画「惜春鳥」の上映会があるので、時間があったら見に来て下さいと言われた。「惜春鳥」には木下恵介の美男に対する並々ならぬ思い入れが表れているらしい。昔の映画と思って見ると驚くとも言われた。木下恵介は助手も美男しか使わなかったようだ。そのポスターに出ている佐田啓二を指さして、中井貴一の父親ですねと私が言うと、中井貴恵のお父さんでもありますよ。貴恵の恵は木下恵介の恵から取ったんです。私が「ところで日本初のカラー映画、「カルメン故郷に帰る」は白黒も撮ったんですね。」と、また生半可な知識で言うと、「カラーを撮ってから白黒を撮ったので白黒の方が役者の表情がいいんですよ。」と、詳しく答えられる。しっかり木下映画について教えていただいた私は、来月の上映会に来させて貰いますと言って館を後にした。]]>
平家落人の伝説、京丸ボタン・京丸の里 その2 藤原家
http://aitrip.exblog.jp/14807536/
2010-10-17T18:40:00+09:00
2013-05-25T11:47:07+09:00
2010-10-17T18:40:22+09:00
domonjin
遠州七不思議を行く
林道出発10:25
[#PARTS|USER|58538#]
今回、京丸の里巡りには、連れがある。万歩計の「のりこさん」である。1人でさびしく山を歩いていると、時々声を掛けてくれるのだ。たまに動画で励ましてくれる。その上カロリー計算もしてくれるのだ。
藤原家に行くには2つの道がある。山の古道か、整備された林道かである。もちろんへなちょこの私は整備された道を歩くことにする。
藤原家に行く道の入口11:53[#PARTS|USER|58535#]注:普通に歩くとそのまま、まっすぐ行ってしまうが、左にUターン方向に山を登る道があり、林道京丸線起点があるのでその道を進む。
立ち入り禁止となっている。藤原さんが普通に暮らしていたのだから勝手にロマンを求めて来られても迷惑だろう。
藤原家到着12:06[#PARTS|USER|58534#]
建物は戦前ぐらいに建てられた物だろうか。当たり前の話だか、南北朝時代の物ではない。普通の古い家であった。藤原家の墓
菊の紋が!!
ここにもラケットが!!
作業場?
藤原家の大きなスギの木
林道終点12:23
林道に飽きたので川を渡ってみる。少し上ってみる。滑って落ちそうになるので帰ることにする。
14:32林道入口に戻った。16757歩、だいたい10kmぐらい歩いたことになる。時々万歩計が「すっごーい!」とか「輝いてる!」とか言ってくれたが、なんだかむなしい。
整備された林道は、なめらかな斜面で歩くのは楽だが風景が単調で飽きてしまった。やっぱり、昔の山道を歩かなくてはダメだと思った。靴とか杖とかコンパスとか、装備をしっかりしないと登れないと思う。
麓に戻ってきた。
手打ちそばの一休というお店で天ぷらそばを食べる。1,000円。ここで突然万歩計の「のりこさん」がしゃべり出した。あわてて電源を切る。
お店のそばの風景。
[#PARTS|USER|58537#]
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平家落人の伝説、京丸ボタン・京丸の里(春野町)その1
http://aitrip.exblog.jp/14769761/
2010-10-11T19:47:00+09:00
2013-05-25T11:54:48+09:00
2010-10-11T19:47:14+09:00
domonjin
遠州七不思議を行く
出かける前にカメラのバッテリーが無いのに気付き充電したり、地図を調べたりで出発が午後2時ぐらいになる。先日テレビで、要領の悪い人間は出発前に用事を思い出すとか何とか言っていたのを思い出す。これがあとで致命傷になるのだが。
まず腹ごしらえで春野町の道の駅で山菜そば(600円)を食べる。こんな事をしている場合ではなかったと、あとで激しく後悔する。
[#PARTS|USER|58530#]
[#PARTS|USER|58531#]京丸には地図右下の道路を進む
旧石切小学校。
[#PARTS|USER|58540#]京丸へは左上の道を進む
この小学校でうろうろしていたら、小学校横の公民館で宴会をしていたおじいさんが出てきて、「なんか用かね。」と聞くので、この小学校にバンガローって書いてあるけど泊まれますか?と聞くと、「今日泊まるのかね。」と聞いてきた。もう3時を過ぎていたのでそう思ったのだろう。管理している人を知っているので、連れてきてやるって言って去っていった。最近浜松の大衆浴場でこわいばあさんにあったり、町内の廃品回収でこわいおばさんに怒られたりで、人の優しさに接していない私は、あぁなんて浜松以外の人は優しいのだろうと感心する。しばらくして管理人さんが来て、「3年前にバンガローは止めてしまったので泊まれないよと。」と言うので、写真撮っていいですかときくと、どうぞどうぞと言ってくれた。これが浜松だったら、「人んちの地所で勝手なことせんでくれズラ。」とか言うのだろう。
京丸の里ふもとの農家。
車両通行止め。ここから歩きになる。[#PARTS|USER|58539#]道は2つあるが右の道を行く
左の道が山へ続くという目印の赤いひも。
やたら祠が多い。藤原と書いてある。バトミントンのラケットが置いてあるのがいくつかあった。この里を離れるときに各家で祠を作ったのだろうか。
5時頃もう暗くなってくる。これ以上進むのが難しくなるので帰ることにする。もっと早くから来なければムリだ。
カエル
人里に着いた。トンネルがなんだか怖い。
次回出直しでつづく]]>
豊川稲荷に人生を掛けてお参りをする
http://aitrip.exblog.jp/14630020/
2010-09-19T22:51:00+09:00
2010-09-19T23:30:16+09:00
2010-09-19T22:51:08+09:00
domonjin
飯田線を行く
飯田線豊橋駅
秘境駅弁当は味が濃くて美味しかった。
豊川駅周辺
ああ、こんなに空は青い
私は今大変である。奥さんの姉さんから家の改装費を借りたまま返せないでいるのだ。ことある毎にその事を奥さんから責められ続けている。先日某大国主命を祭る神社に奥さんと出かけ、私が引いたおみくじで「親戚に迷惑を掛け、商売はうまくいかず、性格に問題があるので、この先ダメでしょう」といわれた。奥さんに見つかると「それみたことか」と責められるのであわてて木にしばっておいた。
話は変わって今日は地区の子供会の運動会である。実は私は子供会の会長ともめている。子供会で廃品回収があったのだが、私と奥さんが集めてきた廃品に、規定の色以外のひもで縛ったものが見つかったのだ。そのことについて会長さんが「この色は何?」「どうするつもり?」というので、私が「誰が出したかわからないのでどうしたらよいでしょう?」ときくと、「元あったところに返すんだよ」というので、なんだかいやな気持ちになった私は廃品を雑に放り投げていたら、「ちょっと○○さん、何やってるのよ」と怒られた。私は「なんだその言い方は、ボランティアでやっているのに怒ったりするのはおかしいのではないか」と反論したら、あとは奥さんが「あんたが悪い」とか、会長さんが「私の立場が…」とかいうので「何の立場だよ」とか、大変な騒ぎになった。そんなこんなで、会長さんが仕切る地区の運動会に、「あんたは来なくていい」と、奥さんに言われて本日ゲン直しに豊川稲荷に行くことにしたのである。
豊川稲荷
私は本当に困ると豊川稲荷に行く。ある特定の人物を崇拝する宗教に入っている私の友人が「そんな狐を拝むのはおかしい」というが、野球のイチローも子供の頃から豊川稲荷に来ていたのだ。私が昔地元の神社で「不幸が雪のように積もり死ぬでしょう」という恐ろしいおみくじを引いたときも、豊川稲荷のおみくじでは、「雪がとけるように心配事もなくなっていくでしょう」といってくれた。
豊橋で飯田線秘境駅弁当を買って豊川に向かう。豊川駅は飯田線の中でも立派な建物である。参拝客もけっこういた。しかし最近は駅から豊川稲荷に向かう人は少なく、駅周辺は寂れている、本当はこの雰囲気こそいい感じなのだが。
さて、おみくじである。「身分不相応な望みをせず、地道に生きなさい。この先そんないいことはないけど、頑張った分はむくわれないこともない」というなんだかあいまいな内容だった。私の運勢に気の毒に思った神様が、せいいっぱいオブラートに包んで言ってくれたような内容だった。ありがとう豊川稲荷。
しっかりせい!と言っているようだ。]]>
北遠に残る文明開化の残照 佐久間町 久根鉱山跡
http://aitrip.exblog.jp/14583127/
2010-09-12T18:02:00+09:00
2010-09-15T15:09:18+09:00
2010-09-12T18:02:03+09:00
domonjin
佐久間町 久根鉱山跡
明治初年まで片和瀬鉱山と呼ばれた久根鉱山の始まりは備中の国川上郡の藤井五郎兵衛が開坑した享保6年(1731)となっている(古川鉱業株、久根鉱業所発行「久根鉱山概要」)。 が、しかし、大阪の住友家の書「宝の山」には片和瀬銅山と隣の大滝の八剣鉱山の享保 年の調査記録も含まれるといわれる。 住友家は元禄3年(1690)以来別子鉱山を経営し、享保年間には別子の従業員3千人に達し、その手代らを全国の金、銀、銅山に派遣し調査した結果が「宝の山」にあったと云われるから享保 年より早くから片和瀬鉱山が成立していた事が伺われる。 片和瀬鉱山から南に続く竜山村の峰之沢鉱山にはその当時建てられたと伝えられる石地蔵に寛文9年(1669)と刻まれていることから、察すると起源は更に古いと考えられ、片和瀬も峰之沢鉱山も甲州から武田氏が進出した頃に始まったとも推察される。 しかし、享保の片和瀬鉱山は発展せずその後江戸時代を通して永く鉱山留山として眠った。 明治時代に移り、明治11年名古屋の佐藤氏が再開し、その後愛知県知多郡の榊原氏が継承したが、まもなく休山。明治23年荒木氏が坑夫20名を使い最上位の坑道を開削したがこれもまもなく休山といずれも短命で終わっている。 明治25年10月から大阪の石田氏と和歌山県の原氏の共同経営で原氏の名を付けた原久根鉱山で明治29年から30年初めの冬に一大鉱脈を掘り当て、それを在来の製練法で銅とした為に大きな公害問題が起こった。旧式の製練から出る鉱煙からは亜鉛酸ガス等の有害煙を大量に放出する為に広範囲の樹木や作物が急に枯死して跡形ない上に岩石の表面が酸化されて剥脱崩壊の状態と成った。 この為に明治31年5月には住民の再三の反対運動の陳情を受け県は採鉱、製練の停止命令を出した。 「同鉱山は足尾にも優る良鉱なれば今後無害の地に製練所を設けて大いに事業を拡張するや」と地元住民も鉱山そのものの価値を認めていた。
明治32年2月、日本鉱業界の大手である古河市兵衛が久根鉱山を買収し明治45年の閉山までの72年の長期に渡って経営した。その間には川船輸送が盛んになり(明治9年には全廃)、また、大滝、豊根発電所が作られ、昭和9年には三信鉄道が中部天竜まで開くと、佐久間を含めた周辺の町村に今日で云う大きな経済効果が生まれた。
(参考文献、佐久間町史、下巻)
( 資料提供、和田芳博氏)
地元の人に久根鉱山はどこですかと聞くと、この山全部がそうだと教えてくれた。山の上の方はとても登れない。沢の方に当時の産業遺跡が残っている。現在鉱山内は立ち入り禁止で、無理して見に行くのは命が危なそうだ。
鉱山輸送は三信鉄道(後の飯田線)が開通するまでは天竜川を帆船で運ばれたが、昭和十二年に鉄道が開通し佐久間に中部天竜駅ができると鉱山輸送は汽車輸送に変わっていった。
このように近代化と云う時代の変化とともに多くの筏師や水夫はその職を失っていたのである。
当時天竜川の権利を有していた田代家は、天正8年(1580年)徳川家康の遠州経略に協力したことにより、御朱印を与えられた名家である。現在日曜日に見学することが出来る。
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