北遠に残る文明開化の残照 佐久間町 久根鉱山跡 |
明治初年まで片和瀬鉱山と呼ばれた久根鉱山の始まりは備中の国川上郡の藤井五郎兵衛が開坑した享保6年(1731)となっている(古川鉱業株、久根鉱業所発行「久根鉱山概要」)。 が、しかし、大阪の住友家の書「宝の山」には片和瀬銅山と隣の大滝の八剣鉱山の享保 年の調査記録も含まれるといわれる。 住友家は元禄3年(1690)以来別子鉱山を経営し、享保年間には別子の従業員3千人に達し、その手代らを全国の金、銀、銅山に派遣し調査した結果が「宝の山」にあったと云われるから享保 年より早くから片和瀬鉱山が成立していた事が伺われる。 片和瀬鉱山から南に続く竜山村の峰之沢鉱山にはその当時建てられたと伝えられる石地蔵に寛文9年(1669)と刻まれていることから、察すると起源は更に古いと考えられ、片和瀬も峰之沢鉱山も甲州から武田氏が進出した頃に始まったとも推察される。 しかし、享保の片和瀬鉱山は発展せずその後江戸時代を通して永く鉱山留山として眠った。 明治時代に移り、明治11年名古屋の佐藤氏が再開し、その後愛知県知多郡の榊原氏が継承したが、まもなく休山。明治23年荒木氏が坑夫20名を使い最上位の坑道を開削したがこれもまもなく休山といずれも短命で終わっている。 明治25年10月から大阪の石田氏と和歌山県の原氏の共同経営で原氏の名を付けた原久根鉱山で明治29年から30年初めの冬に一大鉱脈を掘り当て、それを在来の製練法で銅とした為に大きな公害問題が起こった。旧式の製練から出る鉱煙からは亜鉛酸ガス等の有害煙を大量に放出する為に広範囲の樹木や作物が急に枯死して跡形ない上に岩石の表面が酸化されて剥脱崩壊の状態と成った。 この為に明治31年5月には住民の再三の反対運動の陳情を受け県は採鉱、製練の停止命令を出した。 「同鉱山は足尾にも優る良鉱なれば今後無害の地に製練所を設けて大いに事業を拡張するや」と地元住民も鉱山そのものの価値を認めていた。
明治32年2月、日本鉱業界の大手である古河市兵衛が久根鉱山を買収し明治45年の閉山までの72年の長期に渡って経営した。その間には川船輸送が盛んになり(明治9年には全廃)、また、大滝、豊根発電所が作られ、昭和9年には三信鉄道が中部天竜まで開くと、佐久間を含めた周辺の町村に今日で云う大きな経済効果が生まれた。
(参考文献、佐久間町史、下巻)
( 資料提供、和田芳博氏)
地元の人に久根鉱山はどこですかと聞くと、この山全部がそうだと教えてくれた。山の上の方はとても登れない。沢の方に当時の産業遺跡が残っている。現在鉱山内は立ち入り禁止で、無理して見に行くのは命が危なそうだ。
鉱山輸送は三信鉄道(後の飯田線)が開通するまでは天竜川を帆船で運ばれたが、昭和十二年に鉄道が開通し佐久間に中部天竜駅ができると鉱山輸送は汽車輸送に変わっていった。
このように近代化と云う時代の変化とともに多くの筏師や水夫はその職を失っていたのである。