本日の直虎で微妙な堀江城の大沢基胤、堀川城でかく戦えり。 |
大沢基胤(もとたね)は永禄8年(1,565)9月、飯尾豊前守(ぶぜんのかみ)が守る曳馬城攻めのために、城飼郡(小笠郡)の新野(にいの)城主新野左馬助や井伊家の老臣中野信濃守(しなのかみ)らと共に出陣した。この時の堀江勢の奮戦は目ざましかったが、結果は和睦となった。戦後、今川氏真はその臣小鹿右馬助を堀江城に使わして、その功を深くたたえ特に感状を与えたのである。その頃の今川氏の所領は、駿河17万石、三河24万石、尾張12万石の計80万の大勢力であった。
このような勢力を持っていた今川氏も、氏真が暗愚(あんぐ)無能に加えて、遊興の日々を過ごしたため、その支配力は急速に落ち始めた。
薩た峠の合戦に敗れ、駿府に火をかけられた氏真は、遠江における今川勢の拠点(きょてん)掛川城主朝比奈泰朝(やすとも)のもとに身を寄せた。
一方、武田信玄(しんげん)から、駿河、遠江の分割を持ちかけられた岡崎城の徳川家康は、好機到れりとばかり、直ちにその実行に着手した。すなわち、浜名湖の北と南の二手にわけて東進し、その手始めに井伊谷城を血祭りにあげ、続いて刑部(おさかべ)、白須賀、宇津山の諸城をおとしいれ、威風堂々と曳馬城に入った。
家康が曳馬城に入るまでの、すなわち井伊谷、刑部の両城を攻略するまでの経緯を書き添えておこう。それは後で、堀江城攻めに出てくる井伊谷3人衆が、家康の家臣になった事情が理解されるからである。
遠江国都田村の土豪(どごう)、菅沼治郎右エ門忠久は、同族の三河国野田村の菅沼定盈(さだみつ)から来た書状を見た。それは、「このたび岡崎の家康公が、遠州へ向けて進発するが、土地不案内のためその先導を願いたい」というもので、思案に余った忠久は、日ごろ親しく交際している瀬戸の鈴木三郎大夫重路(だいふしげみち)、井伊谷の近藤石見守康用(いわみのかみやすもち)の考えを聞いた。
忠久、重路、康用ら3人は、鎌倉時代からの北遠の名族で、井伊氏の旧家臣であった。井伊家の当主直親が駿府へ行く途中、今川氏から反逆の疑いがあるとして、掛川城主朝比奈泰能(やすよし)に殺されたばかりか、その領地も没収されて一家は離散し、その子万千代はのがれて流浪するという悲惨なありさまとなった。その結果「我々が恥をしのんで今川氏に従ってきたのは、主家井伊氏の再興の機会を待っていたためである。それにはまたとない好機会である」と相談が一結して家康に参ずることにした。なお万千代は、のちに登用されて彦根城主井伊直政となる。
定盈の手引きで3人が三遠国境で家康に初対面したのが永禄11年(1,568)の12月であった。家康は、屈強な遠州侍を味方にしたことで大変な喜びようで、その場で3人に気賀の郷、蒲の郷、万斛(まんごく)、橋爪、萱場(かやんば)、安間の郷、新橋(にっぱし)、小沢渡(こざわたり)、人見の郷などを与えることを堅く約束した。喜び勇んだ3人を道案内として家康は、今川勢の守る井伊谷城を追い、更に刑部城を攻略し、一挙に曳馬城に入ったのである。
3.掛川城攻め
家康は更に、氏真のいる掛川城を攻略しようと、酒井忠次、石川数正、本多広孝、植村家政、小栗忠吉らに兵2,500余人を与えて進撃させた。
掛川城も三浦秀盛(ひでもり)らが家康軍を攻め、両軍はここを先途に激しく戦い、今川勢の討死した者は、伊藤次郎、同右近、同掃部助(かんべのすけ)、笠原七郎兵衛、菅沼帯刀(たてわき)、朝比奈小三郎ら名のある者38名、ほか雑兵180人ばかりであった。家康方も数人討死したが名のある者ではなかった。それにもかかわらず城は落ちないので、和睦をした。
4.堀川城の悲劇
堀川城合戦の模様をややくわしく述べる。堀川城は堀江城の属城で大沢氏の支配下にあり援軍を送っているからである。
掛川城攻めで和睦し、一時岡崎に引き上げようとした家康が、姫街道へ差し掛かったところ、堀川城に立てこもった浪人や農民たちが、家康に反抗の気構えを見せた。
堀川城は気賀の村はずれ油田(あぶらでん)の小高い丘の上に柵(さく)をめぐらし、前面に都田川の水を引き、背面を浜名湖に臨ませた砦(とりで)であった。
城主は新田友作という祝田(ほうだ)で寺子屋を開いていた浪人で、土地の豪族尾藤主膳(びとうしゅぜん)や山村修理(しゅり)、竹田高正などにあやつられて、気賀村一帯の農民をかり集めて築いたのがこの砦(城)で、永禄10年(1,567)に完成したばかりである。
農民たちの不穏(ふおん)の気配を知った家康は非常に驚いた。そこで諸将を集めて善後策を協議したが、諸将はただぼうぜんと顔を見合わせるばかりであったが、やがて渡辺図書(ずしょ)という者の計略で、家康に雑兵(ぞうひょう)の服装を着せ、17騎と共に先発させ、図書は後から200人ばかりの兵を従えて通った。
城兵は後の一団中に家康がいるものと思って攻めかかったが、求める家康がいないとわかって、がっかりした。
こうして岡崎に帰った家康は、3,000の兵を整えて、堀川城攻略に出陣した。
堀川城には、西光院、宝諸寺、桂昌院などの余類があり、基胤の属将には尾藤主膳、山村修理、その他竹田高正、新田四郎などの土豪がおり、刑部には給人、百姓などの内山党があり、また寺社人、地下人と称する者を合わせて1,500人が立てこもった。
平松崎に陣を立てた家康は、永禄12年(1,569)3月12日、満々とたたえられた外堀の水が、干潮(かんちょう)で引き始めた間髪を入れず総攻撃の火ぶたを切った。水が引いた堀川城は裸も同然、それに農民1,500人は、男と言わず女子供までがスキ、クワ、竹ヤリの武器を持っているとは言え、戦うまでもなく城内はたちまち悲惨な地獄絵と化し、女子供まで切り殺され突き殺されて、僅か1日であえなく滅び去ったのである。堀江城から出された20人の援軍もみな討死した。竹田高正は城内で切腹、山村修理は小引佐に逃げて切腹、新田四郎は逃げて僧になったが、後で惨殺された。
尾藤主膳は落城の様子を堀江城に報告するため部下10名と共に小舟でひそかに脱出して堀江城に着き、つぶさに報告したのち城内にかくまわれたが、その年4月、大沢氏が家康と和睦したため、無念の涙をのんで10人と共に切腹した。堀江の大木戸という所に十頂(とうず)(十頭)という古い地名が残っていて、10人の首を埋められた小社が建てられ、十頂八幡宮として祭られていたが、現在はその跡さえ見られない。
悲劇は落城後も続いた。堀川城内の農民兵や女子供は、その半数が戦死したり惨殺されたが、残る700人ばかりはとりことなり、都田川の堤に集められて惨殺された。そこを獄門畷(ごくもんなわて)として碑が建てられている。
その当時、気賀、刑部両村の人口は3,000人であったから、その半数が戦死あるいは惨殺されたのである。そして更にその上、気賀村の全家屋が焼き払われたのである。
5.堀江城の激しい攻防
城主大沢基胤は始めから家康が気に入らず、近郷入野村の木寺宮と謀(はか)って兵を集め、堀川城を助けるなど、事毎に反抗の態度を取っていたので、このたびの挙に出たのである。
基胤は、中安兵部や権太織部(ごんだおりべ)などの勇士を養って、近隣にその武名が高く、このほかに村櫛の志津城を守る山崎権太夫、真瀬将監(しょうげん)、山下七郎右エ門らの勇士もいた。
永禄12年(1,569)3月25日、井伊谷三人衆の近藤石見守康用その子登之助秀用(のぼりのすけひでもち)、鈴木三郎大夫重路、菅沼治郎右エ門忠久、新八郎定盈(さだみつ)父子らが堀江城を攻めた。
堀江城は三方湖に面し一方は沼で、潮が満ちれば攻めにくい要害の地であった。加えて強力な勇士が立てこもり、三人衆は全力を尽くして攻めたが容易に屈する気配も見えない。よって家康は鈴木権蔵に附城を築かせてその陣代とし、長期戦の腹を固めたものの、基胤はよく防戦し、時には城外に討って出て井伊谷勢を苦しませた。総大将近藤石見守でさえ堀江城士新村善左エ門とわたり合って、槍(やり)で股(もも)を突き刺されたほどである。またある時は、堀江勢の逆襲を受けてあわてふためき、具足をつける暇もなく素肌で防戦したこともあって、どちらが攻め、どちらが防いでいるのかわからない攻防が続いた。
この時の激戦の模様の一例を挙げてみると
城兵300ばかりがほこを揃えて討って出たので、井伊谷勢はわずか100人ばかりで防戦したが、井伊谷勢が城兵の勢いにのまれて、ほこを合わせないのを見て、城兵の中の一武者が群を離れて進み出で、すでに6─7尺ばかりの距離になったとき、近藤石見守が出てきてこれと一騎討ちをしようとした。同じ三人衆の鈴木三郎太夫は、近藤と同年で常に権勢を争っていたが、この有様を見て近藤の後から進み来て「彼はよき敵である。討ちもらすな。」と叫んだ。近藤は無言のままで進み、鈴木も続いて進んだ。井伊谷勢はこれに勢いを得て、ときの声をあげながら後に続いたので、城兵もたじたじと退いて門内に入った。残った武者が1人で戦っているうちに中から城門を閉じてしまったので、武者は入ることができず木戸わきに突っ立って防戦した。近藤と鈴木は互いに自分の功名にしようと木戸ぎわまで追いつめると、この時やぐらの上に2人の兵が銃を構えて現れ、2人をねらって発砲した。このため鈴木は銃弾を受けて戦死したが、近藤をねらった銃は不発に終わって助かり、直ちに武者を討ち取った。
この武者は数日前他国から武者修行に来ていた者で、生国も名前もわかっていない。
基胤は、この攻防の始まった10日目の4月4日、掛川城主朝比奈泰朝へ書状を送って、近況や心境を伝えている。それを要約してみると、
●久しく御無沙汰(ごぶさた)しているので其の地(掛川)が心配に思うこと。
●当城は今までは堅固であること。
●兵糧は当座2─3ヶ月ばかりは持っていること。
●城下の知行分も欠所になったこと。
●来作(麦)は少しもなくどこからも兵糧の入る当てのないこと。
●敵方から種々の難題をかけられていること。(降伏のことならん)
●今になってこのような次第で無念至極であること。
●堀川城は十分な備えが出来なくて、すぐに攻め落とされたこと。
●給人百姓ことごとく討死し加勢した二十人も討ち死にしたことはくやしいこと。
●末々のことは御下知(げち)を頂きたいこと。
しかしこの書状を送った時はすでに掛川城は家康と和睦した後で、果たして届いたかどうか不明である。
基胤は城外に討って出る時や、敵が攻め寄せる前には、士気を鼓舞(こぶ)するために必ず鐘をたたき太鼓を打ち鳴らしたと伝えられ、これが後世に再現された「堀江陣太鼓」の由来である。
6.堀江城が家康と和睦してその家臣となる
家康は堀江城の意外な反撃に驚き、これを力で攻め落とすことの困難を知って、使者渡辺成忠を城中につかわし、言葉をやわらげて基胤を説得した。
「大沢氏は由緒(ゆいしょ)の正しい家柄で、もとより今川氏の被官でもなく、家人でもない。それだのに古いよしみを重んじ盛衰(せいすい)をもって志を二つにせず、終始今川氏のために守って屈せず奮戦力闘日夜をわかたず、却って寄手を攻めること数度ならず、その忠勇義烈は最も深く感ずるところである。
しかし今や掛川との和睦もなり、遠州一円は我がものとなった。わが領にある者はわが命を聞く、これ天意人道ではないか。われはすでに氏の武勇を認めた。いま帰順したならば、間違いなく所領は元のままにしておこう」と。
家康からの降伏説得はたびたびあったようである。掛川城への書状にも、敵方から種々難題をかけられている、というのはこの説得のことを指しているものと思われる。
基胤はこれに対して「使者の言葉はよくわかった。その言葉が果たしていつわりで無かったら、家康自筆の誓書を得てから、おもむろに考えよう。それが得られぬ場合は我また答える言葉はない」と返事した。
使者は帰って家康にこれを報告した。家康は「基胤の言葉には理がある。我なんぞ誓書を与えることを惜(お)しまう」と言って次のような起請文(きしょうもん)を自ら血判して基胤に与えた。
敬(うやうや)しく白(もう)す起請文の事
1.当城へ居城のこと
1.諸事公事を抜くこと有るまじきこと
1.本知何(いず)れも前々の如く新居のため呉松に替地相違有るまじきこと。
1.当知行分諸不入並びに当城下の諸成敗山河と共に前々の如く為すべき事
1.万事に於いて虚説(きょせつ)などこれ有るに於いては訴人は糺明(きゅうめい)を遂(と)ぐべき事
右の条々偽(いつわ)るに於いては 上は
梵天(ぼんてん)、帝釈(ていしゃく)、四天王総じて日本国中大小神祇(しんぎ)、別して弓矢八幡麻利支天(まりしてん)、富士白山愛宕(あたご)山、秋葉天満大自在、天神様の御罰を蒙(こうむ)り、今生に於いては弓矢冥加(みょうが)を尽くし、黒白病を得、来世にては無間に落つべきものなり。
仍(よ)って起請文件(くだん)の如し
永禄十二年四月十二日 家康 血判
大沢佐エ門佐殿
中安兵部少輔殿
権太織部佐殿
なお同文で同月同日、酒井佐エ門尉(じょう)忠次と石川伯耆守(ほうきのかみ)数正の血判による起請文が渡されて、誓いの固いことを示した。
こうして永禄12年4月12日、基胤は家康と和睦の形で、20日間の激闘が終わったのである。
破竹の勢いで諸城を陥(おとしい)れた家康が、かくまで礼を厚くして和睦したことは、一つには大沢氏の家系の貴(とうと)さにもよろうが、二つにはその士卒の勇武と堅固な自然的地形のために攻めあぐねた結果であり、更に推理を働かせれば、天下統一の大業を前に、このような小城にいつまでもかまってはいられぬ、というあせりの気持ちがあったのではなかろうか。
永禄11年家康は信玄と約して、今川義元の遺子氏真の暗愚に乗じて、駿遠を分取しようとした。すなわち信玄は駿河を攻めて氏真を掛川城に敗走させ、家康また掛川城を攻めた。
思えば、足利氏の一門として、また関東の副将軍として勢威の強大を誇った今川氏も、その末路のあわれさ。懸命の地と頼んだ掛川城も今や四面ことごとく楚歌(そか)。わずかに大沢氏が、家康の根拠地西遠の地において義のために抗戦よく奮戦した。
7.あとがき
数代にわたる栄華を夢として、今や正に亡びようとする今川氏に取っては、基胤の善戦こそは無上のはなむけとなったことであろう。
これより10年後、家康の長男信康は信長の怒りを買い、家康の助命運動も空しく、三河の大浜から堀江城に入り、一宿して二俣城に至り自刃して果てた。まことにふしぎな因縁と言うべきであろう。